都忘れの花言葉に潜む悲哀と歴史|順徳天皇の祈りと栽培の極意 - 複眼インデックス
都忘れという情緒あふれる名前の背景には、鎌倉時代の初期、皇権回復を賭けて戦いに散った第84代・順徳天皇(1197〜1242年)の過酷な運命が存在します。1221年に勃発した「承久の乱」において、父である後鳥羽上皇とともに鎌倉幕府軍に敗れた順徳天皇は、25歳という若さで絶海の孤島・佐渡島への配流(島流し)を余儀なくされました。
都の雅な暮らしから一転、荒波が打ち寄せる北国の地で厳しい幽閉生活を強いられた順徳天皇。島での暮らしの中で、ひっそりと野に咲く紫の小花を見出し、自らの心を慰めるために次のような歌を詠んだと伝えられています。
「いかにして 契りおきけむ 白菊を 都忘れの 名にぞ呼びなす」
宮廷生活への断ち難い思慕と、二度と洛中へ戻ることは叶わないという絶望的な現実。天皇は「この花を見つめている時だけは、恋しい都のことを忘れられる」と自らに言い聞かせ、その可憐な野菊を「都忘れ」と名付けたと語り継がれています。佐渡の地で21年もの歳月を過ごし、都へ生還することなく46歳で崩御した順徳天皇の生涯が、この花に永遠の哀愁をまとわせることとなったのです。
植物学的なルーツを辿ると、都忘れは本州・四国・九州の山林に自生するキク科ミヤマヨメナ(深山嫁菜)の園芸改良品種です。野趣あふれるミヤマヨメナの中から、花色が濃く美しい個体が江戸時代以降に選抜・育種され、観賞用の「ミヤコワスレ」として広く親しまれるようになりました。